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寝るまでが今日です。

深夜更新です

その屋上には田中昴がいた。

「本日快晴なり」

 にんまりと笑い屋上に立っている。

 空には雲一つなく、太陽のソロステージである。そして屋上には僕以外に姿はなく自分のソロステージである。

 アイドル気分でステップを踏む。そのまま歌ってみる。夏の歌だ。今は六月の頭だから夏の歌は少し早いかもしれないけれどまあこれだけ気分がいいのだから多少のフライングも許してもらおう。

 丸々一曲歌い切りスッキリした。

「よし、死のう」

 柵に近寄る。転落防止用の柵なのだが偶然の事故を防ぐことは出来ても故意で超えようとする人間を止められるわけもない。「いよっと」なんとかよじ登り柵の上に座る。鉄の棒が体に食い込んで落ち着かない。でもそれが小学生の時によく遊んでいたジャングルジムのようで懐かしくなる。

 よくこんな風に空を見ていた。いつもよりもジャングルジム分だけ近くなった空がなんだか嬉しくて手を伸ばしたりなんかして、でも届かなくて。しまいには立てば届くんじゃないかなんて棒の上に立ってそのまま落ちたこともあった。

 あの日掴もうとした空は今も目の前にある。色も形も全く変わらない。でも自分は身長が伸び、体重が増え、歳が増え、高校生になった。そしてなにより空には手が届かないことを知った。

 ワイシャツのボタンを上から二つ開ける。いつも開けている第一ボタンと合わせて三つ開けて出来た空間に風が滑り込みそのままお腹の辺りから抜けていく。

「こんな風に友達もいなくなっちゃったからなあ」

 小学生の頃はそれなりに友達がいた。中学生の頃はほどほどに友達がいた。そして高校生になって消えた。この高校に入り早二か月、会話をしたのは「消しゴム貸して」「いいよ」「教科書見せて」「いいよ」ぐらいだ。あまりにも「いいよ」としか発さないからか裏で自分のことを「ロバ人形」と呼んでいる人間もいるぐらいだ。

 普段、「舞浜行こうぜウェーイ」と盛り上がっている奴らがネズミの国のキャラクターを蔑称に使うだなんて何事かと思ったけれど、どうでもいいことだ、これで終わるのだから。

 柵に手をつけ、足をぶらつかせてみる。

 空を見る。雲一つない快晴。なんとも生きるのに適した日だと思う。木々はハツラツと青々とし、鳥たちは楽し気に歌っている。

 まさに「生き日和」。

 だからこそ死のうと思ったのだ。

 自分でも頭のおかしいことを、と思う。

 しかし人生最後の日は最高の「生き日和」にしたかったのだ。

 

 「生き日和」という言葉は中学時代の先生の受け売りだ。

 当時、僕たち三年二組の担任だった先生は「○○日和」という言葉をよく使った。そう、あまりにも頻繁に使っていた。口癖だったのだろう。

 国語の教員だった彼は授業の度に。黒縁の眼鏡のブリッジを中指でクイっと上げ「今日は国語日和だなあ」なんて口にした。雨の日も風の日も雪の日も晴れの日も授業が始まれば「国語日和」。

 運動会の日には「運動会日和」

 合唱コンクールの日には「合唱コン日和」

 彼曰く、楽しむためのおまじないがそれだった。

 そんな彼が僕に「生き日和」を教えてくれたのは九月のことだった。

 あの時の僕は野球部を引退しすっかり腑抜けていた。しかし僕の心なんてものは世界とは無関係で、受験生である僕は家に帰れば「勉強しろ」と言われる。それが嫌で放課後の教室に残りぼうっと外を見ていた。

 最初は家に帰りたくなかったから。でも二度三度と繰り返すたびに家に帰らないための手段は全く別の目的に変わった。放課後の教室が好きになったのだ。

 放課後の教室は橙色に染まる。黒板も教卓も机も椅子もロッカーも自分も。でも同じように染まっているからといって同じものにはならない。周りと同じように染まっていても僕の存在は確かにある。決して世界と混ざらない。それがなんだか安心できた。

 だからその日も安心して泣いてしまっていた。

「どうした、なんで泣いているんだ」

 振り返ると人がいた。橙色に染まったその人は何色にも染まらない黒縁の眼鏡をしている。先生。ぼやけた視界の中に人の形も色も溶かした先生。言葉だけが溶けることなく僕の中に入ってきて、それで泣いているのを見られたのが初めてじゃないことに気がついた。

「いつから気づいていたんですか?」

 僕は涙を拭わずに質問する。

「ついさっき廊下を歩いていたら偶然お前が泣いているのが見えて、な?」

「嘘ですね、廊下からじゃ外を見ている僕は見えません」

 その言葉に観念したらしく「こないだ教室から泣きながら出てくるお前を見たんだ」と気まずそうに言った。気まずいのは僕の方なんだから目を逸らさないでほしい。悪いことをした気持ちになる。

「夕日が綺麗なんですよ」

 再び窓の外を見ながら言った。三階にあるこの教室からは沈む陽がよく見える。でもその代わりにグラウンドは一切見えない。

「こんなに綺麗だと泣いても仕方ないと思いませんか?」

 振り返る。視線が落ち着いた先には先生。形も色も溶けていない先生が黒縁の眼鏡のブリッジを中指でクイっと上げる。僕はしまった、と思った。正直な話この先生の「○○日和」という言葉は鬱陶しくて好きじゃない。

「生き日和だな」

 僕は思わず黙ってしまった。てっきり「夕日日和」だの「泣き日和」だのくだらないことを言ってくるのだとばかり思っていた。しかし先生の口から出たのは「生き日和」。自分で言うのもなんだがさっきまで泣いていた生徒の前で「今日は生き日和」だなんてどうかしている。そんな僕の態度を見てなのか先生は言った。

「だから泣くのだって生きるってことじゃないか」

 女子高生が好きな歌の歌詞のようなことを言いやがった。「泣くのだって生きるってことじゃん、キミは必死に今生きてんじゃん」なんて流行りのアイドルに歌わせたら売れそうだ。プロモーション映像はアイドルの泣いている顔が良い。アイドルの必死な姿を映すことで共感を呼ぼう。僕って天才なのかもしれない。

「なにをにやけているのか知らないが黙らないでくれよ、ええっとまあ、説明するとこんな綺麗な夕日が出ている今日は泣くにも笑うにも都合が良いってことさ」

 先生があまりにも必死なので返事をしてあげることにした。

「でも今日、もうすぐ終わりますよ」

「まだ数時間あるだろ」

「第一さっきまで泣いていた生徒に言う言葉じゃありませんよね」

 辛気臭い同情の台詞や詮索より大分ましなのだがそんなこと今は言わない。

「だからさ、泣くにも笑うにも、なにをするにも都合のいい日なんだからどうせなら笑おうってことさ」

「ハッハッハッハッ」

「笑い方下手か!まあそれでも……泣くより気持ちが良いだろ?」

 一瞬ためて言いやがった。本人的にはかっこいい決め台詞だったのだろう。

「うひゃひゃひゃひゃ」

「もう笑うのは良いんだよ!」

「さっきは笑え、今度は笑うなだなんて無茶なことを言いますね」

「無茶でもなんでも少しは元気が出てきただろう?」

 僕は少し紅くなった。悔しい。本当の決め台詞はこっちだったのか。何より悔しかったのは本当に元気が出てきてしまったということだ。

「人間一人で考えすぎるとろくなことにならないからな。考え込むよりこんなバカな話でも誰かとしてた方がいいのさ」

 先生はそう言うと「じゃあまた明日な」と言って教室を出て行ってしまった。

 一人になった僕は教室を見渡す。橙色に染まった教室がさっきよりも輝いて見える。

「なにをするにも都合の良い」

 そう呟いて僕も教室を出た。

 

「なら死ぬのだって都合が良いはずですよね」

 中学時代の先生に言うように呟いた。

 ここは屋上なのだから誰にも声は届かない。地上に届く声は風が掻き切ってくれるし、そもそも今見下ろしている方向は裏門側であり人が下に来ることが殆どない。だからこそこっち側を選んだのだ。ここにこうしているのがバレて大騒ぎになっても困る。

 本来ならばここは立ち入り禁止だ。ただ居るだけでも大問題になる。もしバレたら「なんでここにいた」「どうやって鍵を開けた」だなんて聞かれるだろう。前者に答えることは出来ても後者の質問に答えることは難しい。だって僕がここに来た時にはもう開いていたのだから。先生が閉め忘れたのか誰かが開けたのか知らないが少なくとも僕はどうやってここの扉の鍵が開いたのかなんて知らない。自分が今ここにいるために通ってきた場所のことすら知らない。

 いや、それは間違いなのかもしれない。僕は鍵がどのように開かれたのか知っている。僕があの黒縁眼鏡の先生にこの高校に入ると言ったときから少しずつ鍵は開き始めたのだ。

 

「僕、ここに行こうと思います」

 十月の桜も散ったころ、僕は橙色の教室で先生にそう言った。

 進路相談のために放課後に開かれる相談会。

 給食でも食べるような格好で四つくっつけた机を挟んで先生と僕は向き合っている。 

 机の上には近所の高校や僕の学力に合わせた高校の資料と僕の模試の結果なんかが並んでいる。資料一つ一つに付箋が貼られているあたり、先生は真剣に僕の進路を考えてくれているのだろう。でもそんな先生の好意も僕の意思を変えるものでは無い。

 僕は鞄の中からそのどれでもない高校の資料を取り出した。

「ここか、でもここ野球部ないぞ?」

 先生は心底不思議そうな顔をしている。先生からすれば僕は野球部に入るのが当然だったのだろう。机の上の資料にも「野球が強い」だなんて付箋が貼られたものがいくつかある。ここら辺に住んでいてその高校が野球の強豪校であることをわざわざ確認する人間なんて先生ぐらいだろうという高校のパンフレットにまで付箋が貼られているあたり、この先生は野球に余程関心がないらしい。

 それなのに生徒のためとなればこうして調べてくれるのだ。僕一人だけならまだしも三十五人分調べるとなると大変だろう。「○○日和」という言葉は嫌いだがそこだけは心の底から尊敬できる。

 そんな先生だからこそ僕は自分の気持ちを言う気になった。

「知ってます、だから行くんです。野球はもう辞めます」

 ――――一瞬、音が止む。

「……本当にもういいのか?」

 喉から捻り出したその声が、僕が周りにどう見られていたのかを確認させる。

「いいんですよ、どうせ試合には出れませんし」

 周りから見た僕はきっと野球しかないような人間なのだろう。実際、オシャレにも流行りのアイドルにも恋愛にも興味を示さず、ずっと野球をやってきた僕はそう見えても仕方ない。でも僕が野球を好きという気持ちは今もそして今だって変わっていない。学校から帰るとき、グラウンドで練習をする後輩たちを見て羨ましく思うし、みんなとの部活の日々を思い出して切なくなる。でもその好きという気持ちは野球、つまりは試合に向けられている。練習だけの三年間を「野球の練習だから」と、耐えられる気持ちではない。

「そんなことないだろ、野球部でだってずっとレギュラーだったんだろ?お前なら頑張れば高校でもレギュラーになれるさ」

 僕は驚いた。てっきり社会の常識だと思っていたのだが先生は知らないらしい。いくらここら辺の野球事情に詳しくないとはいえ、博識な先生だけに意外だ。

 この先生は女子生徒が高校野球の公式戦に出ることが出来ないという規則を知らないらしい。

「女子は試合には出られないんですよ、練習試合ならともかく公式戦には」

 ――――二度目、音が止む。

「そうだったのか、すまん」

 先生は頭を下げた。ポーズではなく本当に心の底から悪いと思ってくれているのだろう。僕のためを思って貼ってくれた付箋の一つ一つが僕を傷つけてしまったと思ったのかもしれない。それはあまりにも不憫だ。

「気にしないでください、女子の大会だってあるんですから高校で野球をやらないというのはただの僕のわがままなんです。だから先生が謝る必要なんてないんです」

 そう、ただの我儘。ただ今まで一緒に試合をしていた仲間たちと自分は違うのだという事実を突きつけられるのが嫌なだけ。僕の野球への思いが自分の自尊心に負けるものだったという事実の方が先生の言葉や付箋なんかよりもずっと心を傷つける。

「高校ではもっと女子らしいことをしようと思うんです。キャピキャピって」

 僕はダブルピースなんかして笑ってみせた。女子的ポーズがこれしか思いつかなかったのだから仕方ない。

「お前がそう言うなら先生もなにも言わないさ」

 先生は少し考えてからそう言った。僕が行きたいと言った高校は僕のレベルに合っていたし周りの人間からの評判も良い真面目な学校だったから先生も反対はしないだろうと思っていた、けれど実際その通りになると少し寂しい、もう少し止めて欲しかった。でも先生もこの高校に野球部がないということを知っているあたり事前に調べてくれていたのだろう。ただ野球部が無いという理由だけで僕の進学先の候補からは外れていた、いや外してくれたのだろう、その温かさは嬉しかった。

「じゃあ僕、これで失礼します」

「ああ気を付けてな」

 今まで誰にも言ったことがなかった野球を辞めるという言葉。それを言ったこの日、屋上の鍵が開き始めたのだと思う。

 

 鍵が完全に開いてしまったから、僕はこうしてここにいるのだ。あの日野球を辞めると言っていなかったら、あの日屋上に行ってみようなんて思わなかったら、僕は今ここにこうしていなかっただろう。そもそもあの日野球を初めなければ僕はこんなにも空っぽにならなかったのかもしれない。今まで野球のことだけを詰め込んできたこの体はもうがらんどうだ。普通の女子高生になるために色々勉強をしてみたりしたけれどもいまいちピンとこず、この有様。空っぽになったからといってそこになんでも詰め込めるほど人間というものは便利にできていないらしい。

 僕の中はなににも満たされず、空しさだけが永遠と響いている。

 それは金属バットの真芯で硬式球を捉えた後の甲高い残響音に似ている。

 その音を聞くのが嫌でこの高校に入ったというのに体の中から聞こえてくるんじゃ防ぎようがない。耳を塞いだところで無駄である。

 それに今僕の手は柵を掴んでいるのだから耳を塞ぐことは出来ない。

 誰かが僕の代わりに僕の耳を塞いでくれればいいのになんてことを思ってしまうけれども、そんな誰かがいてくれたのならこの音はそもそも鳴っていない。

 誰か一人でも僕の名前を呼んでくれたなら、誰か一人でも僕の手を取ってくれたなら、僕のがらんどうはたちまち満ち足りて溢れ出すだろう。

 チームメイトが恋しい。いつも馬鹿をやって笑いあっていた。

 キャッチャーミットを忘れて内野手用の普通のグローブでキャッチャーをやった馬鹿。

 金属バットを舐めて「鉄分補給」と言った馬鹿。

 音痴過ぎてランニング中の掛け声の音程すら取れずに監督に「お前は声出すな」と怒られた馬鹿。

 右利きのくせに左利き用のバッティンググローブも持ってきたと思ったら両方つけて、「これが最新のトレンディ手袋」なんて言った馬鹿。

 夏場に帽子のつばに浮いた塩を舐めて「塩分補給」と言った馬鹿。

 さよならホームランを打ったのにホームベースに帰るとそのままトイレに駆け込み最後の挨拶に参加しなかった馬鹿。

 他人の汗を舐めて「塩分補給」と言った馬鹿。というよりさっきからこいつだけ本当に頭おかしいのかもしれない。流石に「鉄分補給」と言いながら僕に近寄ってきたときは本気でぶっ飛ばした。

 でもこんな馬鹿で楽しいチームメイトたちを僕は拒んだ。彼らはみな高校でも野球部に入ったからだ。男子三日会わざれば括目して見よ、とはよく言ったもので、日に日に大きく逞しくなっていく彼らの姿を見るのが辛かった。だから僕は彼らの集まりに参加することを止めた。

 性別が違うだけでなんで人はこうも違うのだろう。体格。ルール。そんなこと自分にはどうしようもないじゃないか。

 生まれたときから出来ないことが決まっているのなら。

 自分の願いが生まれた時点で叶わないものだとしたなら。

 どうすればいいんだ。

 僕はただ皆と遊んでいたい。でも僕らの性別は違う。ふとした時に胸が苦しくなったこともある。これがトキメキだというのなら僕は恋なんてしたくない。友達を友達として見れなくなっていく自分が怖い。友達に友達だと見てもらえなくなる自分が怖い。

 だから全部空っぽにしたのに今度は何も無いことがすごく怖い。

 がらんどうに空しさが響く。

 僕はそれが堪らず右手だけ柵から放して押さえる。

 耳を塞いでもこの音が鳴り続けるのなら僕に出来るのはこの音を外に出さないことだ。

 僕は口を押え続ける。

 叫びださないよう。漏れ出さないよう。必死に押さえ込んで。

 その時口の中に、鉄と塩の味が広がった。

 長時間鉄の柵を触っていたからその味が移ったのだろう。塩気は僕の汗だ。

 鉄の味は血の味かもしれない。怪我をしたとき、血を舐めて母に怒られたことを思い出す。

 汗の味は涙の味なのかもしれない。試合に負けて悔しくて泣いたいつかの日を思い出す。

 思い出す。

 初めて野球を見た日のことを。父に連れられて行った球場は小学校に上がったばかりの僕にはあまりにも広すぎて、人が大勢いて。なにより選手がかっこよかった。その日の帰り道に父は僕にグローブを買ってくれた。

 思い出す。

 初めて少年野球のチームに入った時のことを。監督が「声が大きくて良いね」と褒めてくれた。それが嬉しくて帰ってから母に何度もその話をした。

 思い出す。

 初めての試合。初めての打席。初めてのエラー。初めての勝利。

 思い出す。

 最後の試合。最後の打席。僕の人生の何もかも。

 口の中に広がった鉄と汗は僕の中の全てを曝け出す。

 グローブが温かかった。バットが冷たかった。母が優しかった。父が優しかった。空が美しかった。猫が可愛かった。テレビが面白かった。女子が怖かった。野球が楽しかった。怪我が痛かった。勝てて嬉しかった。負けて悲しかった。自分が女であることが切なかった。頑張ろうと思った。女子が怖かった。人が怖かった。

 好き嫌い。良い悪い。嬉しい悲しい。

 もうなにもないと思っていた自分の中にはまだこんなにも沢山のもので溢れかえっていた。捨てたと思い込んでいても捨てられていなかった。がらんどうはずっと満ちていた。

 でもどうしてだか生きる理由が見つからない。どんなに思い出しても生きていける理由が見つからない。大切な人はいる。冷たい思い出だけじゃなく温かい思い出もある。でもそれだけじゃ生きていけないんだよ。辛い、悲しい、一人は嫌だ、でも誰にも話しかけられない。共通の話題が見つからない。怖い。みんなの顔が見れない。なにも信じられない。自意識に殺される。助けて。助けて。誰か僕を

「助けてよ!!!!!」

 声に出した気持ちはそのまま青空に溶け込み雲になって雨を降らせる。

「うぐっえぐっうう」

 もう「生き日和」ではなくなった。だってこんなにも生きにくいのだ。

 なら僕は――――

 

 深呼吸して空を見る。先ほどまで青一色だった空に一機の飛行機が飛んでいた。

 その白い点は同じような白い尾ひれを伸ばしている。

 青のキャンバスに白い線。

「だめだな、こりゃ」

 雲一つなかった空には今、雲が出来た。

「生き日和」だった今日は普通の日に変わった。

 死ぬ理由がなくなった。なら自殺は今日も中止だ。雲が出来てしまったのだから仕方ない、それが今日の僕が生きる理由になる。それだけで生きていける。

 僕は後ろにひっくり返る形で柵の上から屋上に戻ろうとした。

「あっ」

 

 風が吹いた。くるり。少女は空に背と腹を交互に見せ、点になった。

 

 

 

 久しぶりに来た教室は相も変わらず騒がしい。その騒がしさの一部が私に近づいてきたらしいことが足音で分かった。真横で止まる。

「あんたがお昼に教室にいるなんて凄い久しぶりだね」

 責めているつもりはないのだろうが胸が痛む。

「熱で休んでたんだよ、まだ少し具合が悪いんだからほっといてくれ」

「違う違う、休んでたのもそうだけどいつもお昼はどこかにふらりと消えちゃうじゃん」

「これからはしばらくここで食べるよ」

「相変わらずクールだねえ」

 私は「ああ」とだけ適当に答えて本のページを捲る。

「えいっ!」その声と同時に出された何かが私の二の腕を突いた。話を聞かずに本を読むのが気にくわないらしい。でも急な肉体接触は止めてほしい。人間には言語能力があるのだから一言「こっち見て」と言えばいいのだ。急に突いたりなんかして恥ずかしい声が出たらどうする。

「病人には優しくしてくれよ」

 今度はきちんと目を見て答える。「もう治ったんでしょ」なんて嬉しそうにニコニコしている顔に腹が立つ。悪気がないだけ余計悪い。「話はなんだよ」と睨むと「そうだそうだ」と人差し指をくるくる回しだした。きっとなにか受信でもしているのだろう。

「あんたが休んでる間に自殺があったんだよ」

 受信完了。ろくでもない毒電波だった。

「屋上から落ちた娘の話だろ?それがどうした」

 昨日の転落事故の話だ。女子高校生って奴はなんでも話のタネにして盛り上がるから質が悪い。本に目を戻す。

「それがね、その自殺した子、打ち所が良かったのか。いやこの場合は悪かったって言った方が良いのかな?落ちた後もしばらく生きてたんだって」

 きちんと聞いていれば本を読んでいても良いらしい。あっここ絶対伏線だ。服の描写が消えた。

「『いやだよ』『死にたくない』なんて叫んじゃってさ、血まみれで」

 ところどころ声のトーンを変えて彼女は話す。話をしたことのない人間のモノマネをするだなんて器用だ。おかげで本に集中出来ない。

「そりゃまた惨たらしい」

 開いた本に目を縫ったまま答える。そんな感情の籠っていない声でも十分満足したようで、最後に「まさに生き地獄」とだけ言って彼女は席に戻ったようだ。足音が遠ざかる。どうやら今のでオチがついたらしい。

 これから死に行く人間に地獄も何もないだろう。

 そう思いながらも私は自分の財布の中を確認した。

 

 翌日の朝、校舎裏には一つの花束が置かれた。その中には光る鍵が一つ。

 その花束を置いた少女、田中昴は屋上を見て呟く。

「もうあの歌が聴けないのは寂しいよ」

 顔も知らない少女の歌が昴の中で響く。

 少女が迎えることのなかった夏の歌。

 明日から始まる夏休みの歌。

 きっと夏が終わっても屋上は厳重に施錠されているのだろう。鍵がなければもう誰も入ることは出来ない。

 これで屋上は少女だけの場所になった。

 がらんどうの屋上には今日も明日もその先も雲ひとつない空が広がる。

 いつか田中昴だけがその空を思い出す。 

 一人の少女の歌声が響く屋上。

 一人だと思っていた少女のがらんどう。でも

 その屋上には田中昴がいた。